当記事は2000〜2001年にかけて季刊誌に連載していたエッセイです。

 
 地元の人が「おみずばた」と呼ぶ大きな池がある。観光ガイドには「雲場池」と紹介されている。

 古くからある幽邃の別荘地に作られた人造のため池で、その沿岸に沿って散策路が整備されており、歩いて二十分ほどで回ることができる。

 豊富な涌き水を湛えており、その透き通るような水面には澄んだ青空と白雲が浮かんでいる。

 その周囲を埋め尽くす広葉樹は、秋になると見事な紅葉に変貌する。風のない日の水面は鏡そのものであり、朱色に染まった樹影を鮮やかに映し出す。 

 降雪後の晴れた冬の朝には、木々に積もった粉雪が風に舞い、池を泳ぐマガモの残した波紋が陽光を受けてきらめいている。 

 
 ぼくと妻の二人はこの湖畔を時々そぞろ歩くことがある。季節によって様々な表情を見せてくれるので飽きることがない。一年を通してアマチュア写真家の姿もよく見かける。

 昨日車で偶然その池の前を通りかかった時のことだった。

   「何だろう?あれは」

 その瞬間フロントガラスの向こうに現れた光景に我が目を疑った。助手席の妻も呆然としている。

   「あんなの、去年あったかしら」

   「おれも見た覚えないなあ」

 と返すと同時に、右足がブレーキを踏んでいた。

   「ちょっと見ていこうか」

   「うん」

 ぼくはその正体を見極めたいという抑え難い衝動に駆られていた。慌しく車をバックさせ、湖畔の空き地に停めると、一目散に駆け寄った。

 二人の眼前に寄添う様にして立つ二本の木。

 寛然と枝を伸ばして池の正面入り口付近を占領し、満開の白い花に全身を覆われている。

 生憎の曇天ではあったが、背景にある新緑の木々がその白いドレスを一層引き立てている。

 ぼくたちは垂れ下がった枝の下から、その花をためつすがめつしたが、それが何の木であるかさっぱり分からなかった。

 颯颯と吹く薫風に揺れる梢には、若葉と花が一緒についており、花びらは離弁花状で五枚の花被からなっている。ぼくたちはしばしその姿に見とれていた。

 一昨年以来、同じ五月に少なくとも四、五回は来ている筈なのに、何故このように優雅な光景を覚えていないのだろう。花の咲き方には「当たり年」というものがあるそうだが、記憶にない理由もそれで説明できるのだろうか。

 そもそもこの花はいったい何なのだろう。ぼくは本来の目的(買物)もそっちのけで、急遽近くの書店に向かった。妻はそんな夫の行動に慣れているとはいえ、さすがにこの時ばかりは呆れ顔でいた。

 
 植物図鑑を立ち読みした結果、それとおぼしき二、三の候補が上がったが、特定することはできなかった。更に詳しい解説と拡大写真が必要だった。

 そしてその日の夜、つまり昨夜であるが、インターネットの出番と相成った。いくつかの候補を検索してみたが、最後まで確信は得られず…。「いったいあの花は何なんだ…?」

 この「モヤモヤ」を解消するためにはどうしたらいいのかと、少しの間考え込んでしまったが、ある場所のことがふと頭に浮かんだ。

   「そうだ、町立植物園…」

 そして日付か変わって今日、今しがた「軽井沢町立植物園」から戻ったところである。

 園長さんから詳しい説明を頂いて、ようやく得心がいった。その答えについては後ほど…。

 
 ぼくは花や木の名前をほとんど知らない。

 例えば樹木の場合なら、広葉樹と針葉樹の違い程度までは分かる。さらにその名称となると、花が咲いていれば中には分かるものもあるが、ひとたび花が散り、幹と葉だけの姿になってしまえば途端にお手上げである。

 ブナもコナラもミズナラもハルニレも、皆同じに見える。

 こちらに移り住んだ際、せっかくそれまで経験したことのない緑豊かな自然に囲まれているのだから、これを機に花や木の名前を図鑑で学んでみようと思った。 

 そこで町内にある図書館で植物図鑑を眺める時間を作ってみたのだが、それだけでは少しも頭に入らなかった。記憶力の問題と言えばそれまでだが、やはりポケットサイズの図鑑を携えて、歩きながら実物を観察する方が早道だ。  

 ところが、ぼくはひとたび自然に抱かれてしまうと、細かい活字を理解する余力みたいなものがほとんどなくなってしまう。

 草、木、土、苔、花などが発散する匂いに、あるいは印象派の風景画のような山の色あいに、あるいは風、川、木の葉、鳥、動物などの発する音に自分の五感を総動員して、ひたすら「自然」を感じるのに精一杯で、それ以外の知的な思考をする余裕がまったくないのだ。

 自然に抱かれた時は頭の中を空っぽにして、心と身体で感じていたいのである。

 たとえるなら、生まれてはじめて好きな女の子とデートをした時の気分に似ているような気がする。

 彼女が飼っているペットの名前だとか、好きなテレビ番組だとか、好きなタレントだとか、そういった相手の発する固有名詞の情報は、単なる記号の羅列として左から右へと抜けていくだけ。

 ただ傍にいる彼女の存在を感じるだけで胸がいっぱいになり、大脳皮質の機能はまるで停止状態。

 なるほど、そういうことか。今気がついた。ぼくは「自然」に恋しているのかもしれない。

 
 アスファルトと排気ガスとガラスの塔に象徴される都会に別れを告げてから、今年で三年目になるが、四季の移ろいが紡ぐ命の輝きを今春ほど実感したことはない。それは、以前よりぼくと自然との「距離」が近づいてきたことを意味しているのだと思う。

 一年目は空漠とした風景画の中を歩いているような感覚で、ただただ周囲の緑に感嘆する日々だった。

 二年目の春にはその風景画の中に鮮やかに浮かび上がる白い花の名を知った。四月の終わり頃だったと思う。

 まだ冬木立の様相を呈しているモノクロームの雑木林の中で、数本の木だけが鮮やかなカラー画面に映しだされたかのように純白の花を全身に纏っていた。その樹影をはじめて目にした時、それがコブシであることを妻に教えられた。 

 その後、この木が町木に指定されていることや、この花の開花が地元の人々に春の到来を告げていることなどを知った。

 
 そして三年目の今春、四月も半ばを過ぎた頃から昨年のその情景を思い出し、コブシの開花を今か今かと心待ちにしていた。長く厳しかった冬の終焉を目に見える形で確認したいという思いがそうさせたのだと思う。

 妻とは互いに職場が近いため、毎朝車でいっしょに出勤するのだが、その通勤途中の車窓からコブシの花を探すのが日課になった。

 けれどもなかなか見つからなかった。まだ春は遠いのかと少し焦れたりもしたが、やがて月が変わりゴールデンウィークに入ったある日、ようやく茶色い雑木林の中に蓬蓬と彩られた白い花を見つけることができた。

 明らかに去年より遅い開花だった。待ち時間が長かった分、確かに訪れた春の証しが一層輝いて見えたのだった。

 
 遅いと言えば、今年は木々の芽吹きも全体的にのんびりとしていた。五月の連休頃の景観に対しては、「緑色」という漠然たる記憶があるのだが、今年のように「茶色」の景色は初めてだった。

 こうした過去の記憶との相違は、自然の営みに向ける意識や視線をより鋭敏にさせていったように思う。

 それまでは車窓からの流れる景色を、単に「色」としてしか捉えられなかったのだが、次第に個々の形態や質感にまで注意が及ぶようになっていった。

 そうして、ついに連休も終わりに差しかかった頃、川沿いや別荘地に広がる雑木林の中に、初々しく芽吹いている木々の姿を確認することができた。

 それらの枝先に一斉に生まれ出た豆粒のような葉芽たちは、茶色い背景の中に無数に吹き出した黄緑色のビーズのようだった。

 
 林の中において光をめぐる競争に不利な立場にある低木は、高木が芽吹く前に葉をつけなければならない。したがって森の新緑は下から上へと広がってゆく。

 依然として丸裸の高木たちの下で、ぬくぬくと日向ぼっこをしている低木の葉芽たちは、その後も順調に若葉へと成長を続けていった。ぼくはそのような新緑の変遷を毎日のように飽かずに眺めては、その度に新鮮な感動を覚えていた。

 
 ある日の雨上がりの朝だった。別荘地を取り囲む森の中は苔や木々の発する湿気と冷涼な空気に包まれていた。
 
 その中を一人で歩いていると、朝靄が晴れていく中、徐々に露わになった幼い葉たちの湿った息遣いが聞こえたような気がした。その刹那心底から若葉の一つ一つをいとおしいと感じた。

 このような感情を抱いたのは今年がはじめてだが、その感懐は胸が締めつけられるような切なさをも内包していた。

 それにしても、芽吹きから新緑までの森の「黄緑」の色合いは瑞々しい。夏の鬱蒼とした濃い「緑」と違って、濡れて鮮やかで、そして柔らかいのである。

 高木が葉をつける前の林は、日差しが林床まで十分に届く。その分だけ林全体が明るくなることも「黄緑」を際立たせている一因であろう。

 更にその薄く淡い緑の背景が、春から初夏に咲く花をますます薫り合わせている。路肩を彩るセイヨウタンポポやナズナをはじめとして、それ以外にも多くの名も知らぬ花たちが春の訪れを祝福している。

 
 都会において春の花と言えば、やはり桜であろう。あちらにいる時は、毎年のように職場の仲間や友人らと「お花見」をしたものだ。

 ただし名目は「お花見」でも、実態は「屋外宴会」であって、桜自体をじっくりと観賞した記憶はない…。

 一般に我々がお花見の対象として「サクラ」と言えば、「ソメイヨシノ」を指すことが多い。しかしこの高原では、その種はまずお目にかかれない。気候が厳し過ぎて生きていけないそうである。

 先日、近くの山間の林道を散歩していると、ふと見上げた丘の中腹あたりに、満開の白い花をつけている一本の木を見つけた。

 町中心部よりも幾分標高が高いので、まだ周囲の森は芽吹き前である。そのような景色の中で孤立蕭然と花を咲かせている様に、何とも言えぬ荘厳さを感じた。

 その後それは「オオヤマザクラ」という桜の一種であることを知った。提灯に照らされる桜並木も圧巻だが、森の中に人知れず咲く野生の桜も、また美しい。

 さて、冒頭の湖畔の木の名前であるが、「ミヤマザクラ」と言って、これまた桜の一種であった。

 件の園長さんによれば、他の桜とは違い、五月の終わり頃に若葉と同時にやや小ぶりな花をつけるため、それを桜と分かる人は少ないそうだ。

 そして今年は近年稀なほどの「当たり年」になっているとのことだった。おそらくはそれが昨年までの記憶になかった理由だろう。

 
 かくして今年の春は、「自然オンチ」の都会人にとって特別な季節となった。心のキャンバスに描かれる高原の風景は、子供のぬり絵から大人の描く水彩画へと変わりつつある。

 「自然」と「心」の距離は、確実に近づいている。

2000年 5月

↑ミヤマザクラ

「軽井沢/エッセイ」-目次(リンク表示)

ミレニアムの夜明け
音楽療法
天明の大噴火
自然と五感と恋心
青天の霹靂
湯川の森-ヒグラシの調べ- 
湯川の森-精霊のウィンク-
コスモス畑
稚児池 
10 避暑地の猫
11 最終章Ⅰ-動機- 
12 最終章Ⅱ-痛みとプラセボ効果-
13 最終章Ⅲ-心と痛みの関係-
14 最終章Ⅳ-生きる-


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