当記事は2000〜2001年にかけて季刊誌に連載していたエッセイです。

 
 まさしく青天の霹靂だった。妻の父が倒れたのだ。知らせを受けた妻はみるみるうちに顔が土気色になり、言葉を失っていた。

 時は折しも現職の総理が脳梗塞で倒れた直後でもあり、義父の病名もまた同じであった。

 ぼくたちは埼玉にある妻の実家へと急遽向かった。実家の傍に住む妻の弟夫婦から詳細を聞いた後、近所にある病院へと急ぎ、義父を見舞った。 

 ベッドに仰臥している義父の顔を見るなり、ぼくは肩の力がすーっと抜けるのを感じた。右瞼がむくんで垂れ下がってはいたが、その瞳に生命の潤いを湛えていた。幸い軽い右半身麻痺ですんだのだ。

 
 少しやつれた義父の横で、気丈に振舞う義母の笑顔とは対蹠的に、妻は依然として動転した様子で口もきけないまま立ち尽くしていた。たまりかねたぼくは、

    「ほら、君も何とか言ってあげたら…」

 と、背中を押すと、不器用に、そしてぎこちなく、やっと彼女は口を開いた。

    「お父さん、大丈夫…」

 まだ喜怒哀楽の表情がはっきりしない義父ではあったが、娘のかけた言葉に対して初めて頬筋がゆるんだように見えた。

 
 入院した経緯は以下の通りである。義弟夫婦が実家をたまたま訪れていた昨晩、コタツの中で横になっている義父が、ある時途端にろれつが回らなくなった。義父の異変に気付いた弟嫁がすぐに救急車を手配し、病院で脳梗塞の診断を受けたのだった。

 弟嫁が介護関係の仕事をしており、脳梗塞に関する知識を持っていたこと、その弟嫁が偶然居合わせたこと、病状の出現が横臥中で緩やかだったことなどの幸運が重なっていた。

 救急車で運ばれる際には、義父の言葉はかろうじて聞き取ることが可能であったが、入院検査後は言語障害が進んでいると聞いていた。ただし意識はしっかりしているとのことだった。

 
 そこでぼくは病院に行く途中、画用紙とマジックペンを購入し、五十音のひらがな一覧を書いて病室に持参した。

 意識が清明な人間にとって、自分の意志を相手に伝えることのできないもどかしさは相当なストレスになるだろうと思ったからだ。左手による「文字指し」で、義父との会話を試みるつもりであった。

 ところが、いざその画用紙を義父に差し出して、今して欲しいことは何ですかと尋ねたところ、左手で文字を指さしながら、

    「あ、い、う、え、お…」

 と、聞き取りづらい発音ながらも言葉を発すると、続けざまに、

    「ほらっ、敦士さんはこういう所にもちゃんとが気がつくのに、内のと来たら…」

 というような内容のことを、たどたどしくゆっくりと話したのだった。その病室でぼくと妻が聞いた初めての義父の声だった。

 
 確かにまだ上手に発音できない言葉もあるのだが、意味はおおよそ理解できる。その言葉に一瞬驚いた後、ぼくたちは一斉に笑いながら、これなら大丈夫そうだという深い安堵が胸の淵を覆っていた。結局その画用紙が不要になったことは言うまでもない。

 その一ヶ月後、順調に回復した義父は無事退院し、不自由だった右手も動くようになり、自立歩行も少しだけ可能になった。

 しかし、自力での入浴はまだ困難であり、日常生活に介助が必要な状態であった。加えて義母の方も身体が弱く入退院を繰り返してきた経緯があるため、この二人暮らしの老夫婦を放っておくわけにはいかなくなった。

 近所に住む義弟夫婦は子供三人を抱えており、家計が苦しい中、共働きをやめるわけにはいかない。さりとて、朝晩だけの弟嫁による世話だけでは心もとない。

(※本エッセイが執筆されたのは平成12年であり、当時はまだ介護サービスが行きわたっていませんでした)

 そこで妻が一時里帰りすることが最善の方法だという結論にぼくは達した。両親にとっても実の娘のほうが気楽で安心できるであろうし、何よりも彼女本人が今それをしなかったら絶対後悔することになると思ったからだ。

 
 しかし妻のほうは、彼女なりに何か思うところがあったらしく、なかなか首を縦に振らなかった。それでも、しばらくの懊悩の末に、一ヶ月という期限付きで実家に戻る意を固めた。

 電話でその旨を伝えると、義父はぼくに申し訳ないからと何度もこちらの申し入れを固辞したが、最後は向こうが折れる形で落ち着いた。

 ぼくたちには子供がいないので、このようなケースではわりとフットワークが軽い方なのだ。(軽すぎて、今では遠い山奥の高原に住みついてしまっているわけだが…)

 
 かくして、ぼくは久し振りの独身生活をすることになった。結婚する以前はアパートでの独り暮らしが長かったので、それ自体は大して苦にならない。

 学生時代に色々なレストランの厨房でアルバイトをした経験があるので、料理(食事)に困ることもない。掃除や洗濯といった家事にも慣れている。

 実を言うと、結婚後も「主夫」をしていた時期が二度あった。  

 一度目は、埼玉県の浦和という町で新婚生活をはじめたばかりの時。当時ぼくが勤めていた職場が変わる移行期で、一ヶ月間ほどの空白期間があった。妻は銀行のOLだった。 

 ぼくは新しい職場へと赴く準備期間を自宅でのんびりと過ごしていた。

 午前中は家事をこなし、午後は図書館などで過ごした後、夕飯の買物をすまして帰宅し、料理を作って妻の帰りを待った。まさに「主夫」をしていたのである。

 ところが、男の料理には金銭感覚が欠如していることが多いと聞くが、ぼくも例外ではなかった。

 たかが夕餉に数千円を使って、食卓を色とりどりに飾ってしまうのだ。妻は喜んで食べていたが、内心金の使い過ぎを苦慮していたそうだ。

 二度目は、今のこの場所に住み始めてからの一年間。ぼくはそれ以前の数年間の激務で心身ともに疲れ果ててしまい、重度の自律神経失調症に陥っていた。その療養目的もあって、この高原に移住してきた。

 したがってはじめから一年間は完全休養するつもりでいた。糟糠の妻はそんなぼくのわがままを受け入れて、見ず知らずの土地で賃貸アパートに暮らす羽目になった。

 一年分の家賃くらいならそれまでの蓄えで賄うことができるが、生活費をなんとかしなければならなかった。そして妻がパートに出た。ぼくは療養を兼ねて再び「主夫」生活である。

 
 そして今年、三度目の「主夫」生活が始まった。今回は妻がいないということ、ぼくが無職でないという違いがある。

 言い換えれば、要は独身時代のアパート暮らしに戻ったということになるが、あの頃の生活とは決定的に違っていることがあった。

 当時の食生活は、近所の居酒屋と近くのコンビニに依存していた。朝は菓子パンで、昼食は職場が出してくれた。夜は週に一度は居酒屋で、それ以外はコンビニの弁当だった。

 しかし今の職場は昼食がつかない。コンビニの保存料べったり弁当はもう食べたくない。経済状態も楽でない。ぼくの中で選択肢は一つしかなかった。

 三食自分で作る以外に道は残されていなかったのである。

 毎朝、起床後直ちに弁当作りにとりかかる。なるべく合成保存料などを使っていない良質な素材を塩分少なめで調理し、緑黄色野菜をふんだんに盛り付ける。

 ここは気温が低いので、傷む心配はいらない。少し余分に作り、それを台所で立ちながら朝食として頂く。

 職場では、男の手作り弁当を感心する(あるいは気味悪がる)同僚を横目に、ゆっくりと味わう。仕事が終わると、自宅近くのスーパーに寄って、その日の夕食と翌日の弁当のおかずを買う。

 このスーパーは町内一の規模を誇り、地元の別荘族を意識した品揃えになっている。

 野菜は地物の採れたてが堆く積まれており、肉類や魚介類も高級食材(ぼくには縁のないものも多いが…)が並んでいる。夏の週末には広い駐車場が首都圏ナンバーの高級車で埋まるような場所だ。

 決して安くはないが、新鮮なものだけをおいているので安心して買うことができる。中でもその日の朝に採れたばかりの高原野菜は絶品である。

 この飽食の時代にあって、澄んだ空気と清冽な水が育む野菜の味は、食の真実をぼくに教えてくれたような気がする。

 
 以前は賞味期限や値段などを気にして買ったことはなかったが、低予算の現状ではやはり頭を使う必要に迫られる。ワゴン内の「見切り品」を丁寧に物色するようになったし、新聞の折りこみチラシに載っている特売品を毎朝欠かさずチェックしている。

 買物をすませ自宅に戻ると、洗濯物を取り込み、部屋の掃除等をした後、台所に立つ。

 夕食をすませた後に食器類を洗い、束の間の休憩時間を過ごす。プロ野球の巨人が勝っていれば、テレビを見ることもあるが、負けていればすぐに消す。その後は読書か調べ事をしている。

 なんと一日の早いことか。あっという間に二四時間が過ぎてゆく。そして、人間の生活とは、なんと食べることに割く時間の多いことか。

 これから日本は超高齢化社会に入ってゆく。介護関連の書物を読んでいると、ある共通したキーワードが浮かんでくる。それは「食事」と「排泄」である。

 生きるための基本生理であるから、介護の現場を占める割合が高いのも道理であろう。

 
 ぼくの住む信州は全国トップクラスの長寿県であり、尚且つ県民一人当たりにかかる医療費が最も少ない県でもある。

 これは理想的な老齢人生を目指した「ピンピンコロリ運動」のたまものでもあるだろう。 

 「健康で長生き」の人が多い風土を支えているものは、健全な食文化、豊かな自然環境、そして規則正しい生活である。

 森と水に囲まれたこの国に生まれたことを感謝しつつ、他方でその環境汚染に歯止めのかからない現状を憂いつつ、ぼくは毎日せっせとお米を研いでいる。

 
 さて、妻が里帰りしてから三ヶ月が経過した。

 義父の生活動作はかなり改善したが、体調は依然として不安定であり、本復には至っていない。

 今では彼女は週末だけこちらに戻り、平日は実家で過ごしている。生活リズムの異なる年寄り相手に悪戦苦闘する日々のようだが、義父の明るい声を受話器越しに聞く度、二人の決断が間違っていなかったことをぼくは実感している。

 介護保険の申請やら、今後の新たな生活スタイルの模索など、当面は心の休まらぬ日が続く義父一家ではあるが、気が利かないながらも天衣無縫たる妻の、のほほんとした笑顔に癒されていることだろう。

2000年 6月

「軽井沢/エッセイ」-目次(リンク表示)

ミレニアムの夜明け
音楽療法
天明の大噴火
自然と五感と恋心
青天の霹靂
湯川の森-ヒグラシの調べ- 
湯川の森-精霊のウィンク-
コスモス畑
稚児池 
10 避暑地の猫
11 最終章Ⅰ-動機- 
12 最終章Ⅱ-痛みとプラセボ効果-
13 最終章Ⅲ-心と痛みの関係-
14 最終章Ⅳ-生きる-


(C)2001三上敦士