※最終章に関しては11)から順にお読みください
最終章の目次
11)最終章Ⅰ-動機ー
12)最終章Ⅱ-痛みとプラセボ効果-
13)最終章Ⅲ-心と痛みの関係-
14)最終章Ⅳ-生きる-
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ここで少し寄り道したいと思う。私事を告白するということは、思っていた以上にエネルギーを消耗する。…ちょこっと小休止…。
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車酔いする人を20人ほど集めて、酔い止めの新薬を試す実験を行った。被験者たちにその主旨を伝え、薬を飲んでバスに乗ってもらい、1時間ほど走ってその反応を調べた。
さてこの実験にはあるトリックが隠されていた。酔い止めの新薬と言って投与した薬は、実は偽薬だったのである。偽薬とは乳糖や澱粉などを薬に似せて作ったもので、文字通り薬効はない。
しかし驚くべきことに、この実験では半数以上の者に効果が現れ、7人がまったく酔わなかったと報告した。
このように、偽薬によって症状が改善してしまう現象をプラセボ(またはプラシーボ)効果という。なぜこのようなことが起こるのか、完全には解明されていない。
だが、おそらくは人間の心理的な思い込みが、ある種の自然治癒能力を発動させた結果だろうと考えられている。
この現象は現代医学においてはたいへん重要な意味を持つ。
いかなる医療効果の判定に対しても、このプラセボ効果を完全に除外しなければ正確な評価はできないのだ。
ある新薬の臨床試験を行う場合、その効果がプラセボによるものなのか、純粋な薬効によるものなのか、その因果関係を明確にする必要がある。
したがって薬の効果を調べる時は、「比較対照試験」というものを必ず行っている。被験者を無作為に二つのグループに分け、一方には新薬を、もう一方には偽薬を与え、そのニ群にどの程度の差が出るかを見極めるのだ。
この時、マスキングと言われる「盲検化」を行うことによって評価の客観性を高めている。「盲検化」とは、被験者と測定者の両者に対し、どちらの群に偽薬が投与されたのかを知らせないことをいう。
試験の当事者たちから、あらゆる先入観を排除しなければデータの正確な判定はできない。結果、プラセボ群よりも新薬群の成績のほうが明らかに優っている(統計学的に有意な差と表現される)と見なされてはじめて正式な認可となる。
ところで、実はこのプラセボ効果は薬効以外でも、医療現場の色々な場面に存在している。
たとえば民間療法の広告に載っている体験者の談話、「…これで治りました」「…の効果に驚きました」などはプラセボ効果を狙ったアプローチとして分かりやすい実例。
また人によっては、〇×大学の有名教授の診察を受けただけで症状が改善するケースもある。
街中の整形外科であっても、膝が痛いと訴えてきたおばあちゃんがレントゲン検査を終えた途端、「ありがとーございました。おかげさまで楽になりました…」と喜んだという微笑ましいエピソードもある(これはぼく自身が体験したこと)。
さらに衝撃的な実例がある。1950年代、狭心症に対する或る画期的な手術法が発見され、普及しそうになったことがあった。しかしその後の研究で、その手術効果がプラセボであることが判明し、医学の教科書からその術式は消えたそうである。
このように医療の世界には至る所にプラセボ効果が潜んでいる。
なかでも、痛みとプラセボのあいだには密接な関係がある。その話をする前に「痛み」について少し説明しておきたい。
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極めて稀な疾患の一つに、生まれながらにして痛みを感じない病気がある。先天性無痛無汗症とよばれているものだ。
この病気を持って生まれた子供は、鉛筆を自分の頬に突き刺して遊んだり、親の注意を無視して高所から飛び降りたりする。その結果下肢を骨折しても、子供自身は全く痛みを感じないために、しばらくすると再び同じことを繰り返してしまう。
子供が骨折する度に、親や医師はけがをすることの恐ろしさを説明し理解させようとするが、痛みを知らない子供にとって、それを学習することは非常に難しい。
このように、けがをした時に発生する痛みは人間にとって生存に欠かせない機能の一つであると言える。
昨年、海外での或る実験によって、昆虫でさえも痛覚が存在する可能性が強いことが分かった。もしかすると我々が何気なく殺している瞬間、虫たちも人間と同様に激痛を感じているかもしれない。
とりもなおさず私たち人間にとって、けがや火傷に伴う急性痛は命を守るための緊急避難警報の役割を担っていると言える。
ではその警報はどこで鳴るのか?
人が実際にけがをした際、手が痛むとか、膝が痛いとか表現するが、もちろん手や膝そのものが痛いと言っているわけではなく、あくまでも痛みを感じているのは脳である。
たとえば足の上に物を落した場合、異常な圧力を感知したセンサーがある種の信号を発する。それが脊髄へ伝わり、脳へと昇ってゆく。そこで初めて脳が痛みを認識することになる。
この「末梢神経→脊髄→脳」という痛みの伝達は、人体に張り巡らされている神経のいわば電線を通過している。
脳内に入った信号は最終的に大脳皮質へと辿り着く。
したがって脳やその電線の途中のどこかで、麻酔薬を使って電気が流れないようにすると、痛みを感じることなく手術ができる。
このように生体が傷ついた際の痛み、つまり急性痛の伝導路は、その大部分が科学的に判明しており、実際に手術や麻酔によって証明されている。
しかし筋肉や関節の慢性的な痛みに関しては、実は判明していないことが非常に多い。現在の科学レベルでは、そのメカニズムを客観的に証明することはできないのだ。
(医師を含め医療従事者の多くは医学書の記述を鵜呑みにしている…。そもそも教科書を疑うという視点がない。目の前にある臨床の現実より教科書が正しいと思い込む。医療者にとって最大の教科書は患者さんだということに気づくことなく、先人の教えを盲信し、半知半解の知識をふりかざす…、そんな医療者をぼくはたくさん見てきた)
その未解明な痛みとはつまり、腰痛、肩こり、四十肩、膝痛などに代表される、整形外科で扱う筋骨格系の慢性痛である。
少し意外に感じるかもしれない。これらに関する医学的見解はだいたい統一されているし、レントゲンなどを使った医師の説明も分かり易い。思わず「そうなんだ」と納得してしまうことが多い。
しかし、この「分かり易い」ところに落とし穴があるのだ。
真に“痛み”を研究している者のあいだでは、整形外科における慢性痛の概念にほころびがあることは周知の事実である。
たとえばレントゲン、CTスキャン、MRIなどによって得られた画像所見と、実際に患者さんが訴える症状は一致しないことのほうがはるかに多い。
整形外科という専門領域が生まれた当時、“形態学上の修復をする”ことが主任務であって、“痛みの原因診断をする”場ではなかった。
ところが戦後の高度経済成長時代、現代人の慢性痛が運動器(筋肉や関節)に現れたがために、整形外科が“痛み”を診るようになってしまったというボタンの掛け違いがある。
現代医学は形態学上の診断と痛みの原因診断を混同させるという途轍もなく大きな過ちを犯している…。
そもそも「慢性痛」という言葉が生まれたのは1960年代であり、長い医学の歴史から見て、いかに日が浅い分野であるかお分かり頂けると思う。
筋骨格系の慢性痛は腫瘍や内臓疾患から生じることは稀であり、それ以外の大多数は即座に生命を脅かすことはない。腰痛や肩こりなどを10年以上抱えている人は無数にいる。特別な例外を除けば、その痛みで亡くなる人はいない。
このような痛みは生命の危機を知らせる緊急サインとは言えないわけで、これは急性痛とはその性質も意味も明らかに異なっている。
この不可思議な痛みの存在理由とはいったい何なのか。
あるとき、ぼくはそんな哲学的な問いに逢着してしまった。そしてその答えを探すべく臨床の扉を開けて思考の旅に出た。それは険しい道のりだったが「プラセボ効果」が一つのヒントになった。
→最終章Ⅲ-心と痛みの関係-に続く
「軽井沢/エッセイ」-目次(リンク表示)
1 ミレニアムの夜明け
2 音楽療法
3 天明の大噴火
4 自然と五感と恋心
5 青天の霹靂
6 湯川の森-ヒグラシの調べ-
7 湯川の森-精霊のウィンク-
8 コスモス畑
9 稚児池
10 避暑地の猫
11 最終章Ⅰ-動機-
12 最終章Ⅱ-痛みとプラセボ効果-
13 最終章Ⅲ-心と痛みの関係-
14 最終章Ⅳ-生きる-
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