当記事は2000〜2001年にかけて季刊誌に連載していたエッセイです。
ぼくは観光地でリフトやロープウェイを見かけると、無性に乗りたくなる。
高所恐怖症の人は別として、多くの人はビルや乗り物などから俯瞰する際、ある種の高揚感に包まれるのではないだろうか。生まれて初めて父親に肩車をしてもらった幼児も、きっと同じような興奮を覚えていたに違いない。その「見える世界の違い」に。
10月中旬のある日のことだった。妻と紅葉ドライブの帰り道、「奥志賀ゴンドラリフト」という看板を見た瞬間、ぼくは衝動的にブレーキを踏むと、その駐車場に車を乗り入れていた。
定員四人程度のゴンドラは、駅の暗い空間を抜けると同時に勢いよく加速した。背中がシートに押し付けられ、頭がうしろへ反り返った。
信州を代表するスキーリゾート地、志賀高原。その最奥に位置する「焼額山」を静かに昇っている。
紅葉した落葉樹たちが眼下の山肌を染めている。その上方では、どこからともなく次々と湧き立つ霧雲がぼくたちのゆくてを遮っている。やがてゴンドラはその中に進入したが、薄くまばらに流れる霧の下で木々が赤々と燃えていた。
落葉広葉樹は気温が下がると光合成がうまく行えない。栄養を作り出すことができなくなった無用の葉は枝から切り離され、林床で腐葉土に変わり新たな命の礎となる。
ただ枯れて落ちてゆくのを待つだけの葉にとって、紅葉は最後の晴れ舞台。
眼下に広がる茜色、柿色、くちなし色、黄朽葉が薫り合うその姿の先には、白く閉ざされた雪と氷の世界が待っている。この終焉の紅は、ぼくにはある叫びのように思えてならない。
わたしたちはここにいます。
たしかにここにいます。
わたしたちはもうすぐ長い冬の中に消えてしまうけれど、ずっとここにいるのです。
来春に目覚め、そして芽吹くその日まで、わたしたちを忘れずに覚えていてください。
わたしたちは生きて再び日の光を浴びたい。
きょうのこの紅色を、どうかあなた方の胸の奥深くにおしまい下さい。
落葉広葉樹が紅葉する理由を、何かの本で読んだことがある。秋に実をつけたことを動物たちに知らせるためだという。特に鳥による種子散布は子孫繁栄に大いに役立っているらしい。
しかし近年においては、もう一つ他の理由があるのではないか、とぼくは思う。それは高度に文明を発達させた現代人の登場だ。
彼らは自然と共生する文明ではなく、自然を消費する文明を選んだ。現代において、木にとっての最大の天敵は、火山の噴火や台風ではなく、人間なのだ。
ゴルフ場建設予定地に邪魔な木があるとして、それがサクラやカエデの場合とそうでない場合とでは、伐採される可能性に差異が生ずるのではないか。人間から「美しい」と見なされる木のほうが切られずに済む確率が高くなるのではないか。
森林の運命を人間が握っている今日では、花を咲かせない木よりも咲かせる木のほうが、紅葉しない木よりも紅葉する木のほうが、生存に有利な時代なのではないか。
紅葉とはつまり、動物たちへのアピールであると同時に、人間たちへの必死の叫びのように、ぼくには思えてならない。もしそうであるなら、人間が四季の変遷を愛でる心を持ち続ける限り、自然は、地球は、その思いに応え続けてくれるのではないだろうか。
野生動物が消え、人々が紅葉を見ても何も感じなくなった時、木々もまた紅葉する力を失うのかもしれない。
随分と霧が濃くなってきた。ゴンドラは白い空中を進んでいる。後方を振り返っても何も見えない。標高二千メートルからの遠い山々の景色は霧雲の彼方に埋没していた。
数分後、静寂の空中散歩を終えてゴンドラを降りると、ぼくたちは途方に暮れてしまった。うまくすれば晴れるかもしれないと期待していたのだが、むしろ霧は深まる一方で眺望どころでない。
レストランらしき建物も無い。人もいない。そう言えばゴンドラに乗る時もぼくたち以外に観光客らしき人影は皆無だった。
さてどうしたものかと、当てもなく無為にうろついていると、駅の裏手で小さな立て札を見つけた。「頂上(稚児池)まで…キロ」というようなことが書かれていた。
スキー場のゲレンデと思われる斜面には湿地が広がっており、その上端に細い道らしきものが山の上のほうへと伸びている。どうやらこの先の頂上に何か池のようなものがあるらしい。
「たいした距離ではなさそう…。行ってみるか」
ほとんど衝動的な判断ではあったが、とりあえずその道を進むことにした。ただ、妻の足取りはいかにも重く、気乗りしていないのが見て取れる。無理もないことだ。ぼくたちはこの山のことを何一つ知らないのだ。
視界が悪く、数十メートル先までしか見えない。少し怖いかなとも思ったが、引き返そうという気にはならなかった。後方の彼女は道端を彩る高山植物を観賞しながらのそのそと歩いている。
途中から急に傾斜がきつくなった。「歩く」から「登る」に変わった。すると目の前の霧がすーっと流れ出した。みるみるうちに視界が開けてきた。
見上げた先に青空が小さく顔を出している。その下に背の低いハイマツの群落が見える。あそこが頂上か。あの先に一体どんな光景が広がっているというのか。
息を切らしながらも、はやる気持ちを抑え切れずに飛び跳ねるようにして登った。この先に待ち受けているであろう「何か」に、わけもなく胸が高鳴った。
漸く急勾配の山道が終わり、ハイマツの林の中に入った。
そこからは平坦な木道がその先へ湾曲して続いている。この低い林の先にきっと「何か」がある。そう確信すると、たまらずに走り出していた。頭上に迫る枝葉にぶつかりそうになりながら、何回かのカーブをよろけながら駆け抜けた。
すると林の暗い空間が突如開け、白いものが目に飛び込んできた。海岸沿いの松林を抜けて砂浜に飛び出した時のように、目の前が明るく輝いた。
そこでぼくが見たものは、水面を滑る霧、背後を流れる雲、そしてそれらを映す池だった。
ハイマツやシラビソなどの針葉樹林がその池を囲み、林のところどころに紅葉したナナカマドの赤が散りばめられている。その岸辺近くの水面だけが朱に染まっている。
世の中の全てを吸い込んでしまいそうなほどに限りなく透き通った水が、流れる霧と同じ方向に小さく波立っている。池はその全容がぼくの視界にほぼ収まる程度で、さほど大きなものではない。
厚い雲と霧が立ち込めているため、池を囲むハイマツの向こう側を窺い知ることができない。標高の高い山頂にいるという感覚だけが研ぎ澄まされてくる。雲の中にいるような錯覚が次第に浮揚感のようなものへと昇華してゆく。
…風が凪いだ瞬間、周囲の景色がふわりと浮かび上がり、大地との繋がりを知覚することができなくなった。
この池は気が遠くなるほどの永い時を刻みながらゆっくりと上昇を続けている。ぼくもいっしょに昇っている。天空に浮かぶ池の水面を糸のような霧の束が泳いでは、消えてゆく…。
ひどく現実感に乏しい夢の中にいるような時間だった。数分後、ふと我にかえって妻のことを思い出し、木道を戻った。急坂に疲れた彼女が引き返してはいまいかと心配になったが、林の出口から下を見下ろすと、移ろう霧の中で坂道にあえぐ小さな姿があった。
ぼくは「すごいものがあるぞ、早く来てごらん」と大声で叫んでから再び池まで走り、木道の幅が広くなっている踊り場に座り込んで彼女が来るのを待った。
“稚児池”という名の由来は分からないが、この時ばかりはぼく自身がまるで稚児のようだった。童心のまま大きなブランコに乗って、童心のまま山道を駆け登って、童心のままやがてこの光景に感動するであろう彼女の到着を待っていた。
2000年 10月
※本エッセイを執筆した12年後、稚児池を再訪しました。こちらのページ「天国に一番近い池」で実際の写真をたくさん掲載しています。是非ご覧ください。
「軽井沢/エッセイ」-目次(リンク表示)
1 ミレニアムの夜明け
2 音楽療法
3 天明の大噴火
4 自然と五感と恋心
5 青天の霹靂
6 湯川の森-ヒグラシの調べ-
7 湯川の森-精霊のウィンク-
8 コスモス畑
9 稚児池
10 避暑地の猫
11 最終章Ⅰ-動機-
12 最終章Ⅱ-痛みとプラセボ効果-
13 最終章Ⅲ-心と痛みの関係-
14 最終章Ⅳ-生きる-
(C)2001三上敦士