もうすぐ旧暦の正月ですが、
今年初めてのブログ更新で~す。

今年の年末年始はずっとお仕事…。

で、温泉には行きませんでした。

なので、毎年恒例の“正月1週間断食”は、史上初の“自宅”で。

ところが仕事しながらの断食はやっぱりきつかったぁ…。

水だけの完全断食は4日目に挫折。

その後は果物と酵素玄米を少量摂る復食を3日間続け…。

ある意味、予想通りと言うか、まあこんなものでしょう。

にしても、断食のあとは本当に内臓さんの気持ちがはっきりくっきり!

ふだんの自分がいかに間違った欲求を覚えているか…、
反省しきりとなります。

「胃腸さんはもちろん、膵臓さん、肝臓さん、腎臓さんにも迷惑ばかり…」

でも…、
断食のおかげで、毎日のように続いていた
異常なほどの足のむくみがすっかり消えました。

すねの部分がパンパンに膨れ上がって、
指で押すと、2センチくらいへこんで元に戻らないという、
めっちゃ危険なむくみ。

おそらく病院に行けば、相応の病名が告げられていたでしょうね。
私にとって断食は、“病人にさせない”史上最強の守護神。


さてさて、
昨年、「沈黙の静止画像」だと、宇宙に毒づいたら、
その直後、日経新聞、東京新聞が相次いで、
「日本整形外科学会が新たな腰痛ガイドラインをまとめた」という記事を速報!

【-腰痛は心理的ストレス、画像検査は不要-】

動き始めましたね。ついに。
と言うか、ようやく。

その記事を読んだ時、はじめに思ったこと。

「自分たちの考えが医学の正式見解になった!
これで、患者さんたちに話がしやすくなる。
耳を傾けてくれる人がきっと増える…」

でも、しばらくして「そんな単純な話では…、すまない」ということに、気づいてしまいました。

そして、痛みの裏に隠された “もうひとつの真実” にも…。

(気づくのが遅い!そんなの、とっくの昔に分かってるよ!と言う人もいるでしょう…)

その答えを明かす前に、
まずは、そこに至るまでの経緯を簡単に。

新聞の記事を読んだ直後は、
ずっとプチブルーだった自分を、宇宙が励ましてくれたと
能天気に解釈した私でしたが、じきに老婆心が芽生え…。

待てよ、整形の開業医にとって、
収入の生命線は毎日の物療(電気治療やマッサージ)とレントゲン検査。

それを奪われたら…。
運動療法の点数改正でPT(理学療法士)を常置するところが増えているけど、じゃあ次は、カウンセリングの点数改正⇒臨床心理士の雇用という流れ?

しかし、カウンセリングを受け入れる患者は…?

たとえ、いたとしても、それによってレントゲンの収入減を補えるか…?

いやいや、おそらくその心配はないんだ…。

風邪の抗生物質と同じ経過をたどる可能性が高い。
たぶん…。

風邪の多くはウィルスによるもの。
抗生物質は別名抗菌剤。つまり細菌をやっつける薬。
だから、ウィルスには効かない。

よって、一般的な風邪にとって、抗生物質は無用の代物。

日本呼吸器学会もその事実をガイドラインに明記して、
抗生物質の濫用に歯止めをかけるべく、警告を発している。

ところが、国民の多くは「風邪には抗生物質が効く」と信じている。

心ある医師は、抗生物質の真実を話して、患者さんに理解を促し、
風邪は薬で治すものではなく、睡眠や水分を十分に取って、
自らの免疫力で自然治癒させることが大事と説く。

その時の風邪をただ封じ込めるという考えではなく、
後々風邪をひきにくい身体にしていくことが大切だと諭す。

しかし、限られた診察時間で、そういう話をしていたら、
たくさんの患者をさばけない。

それどころか、あの医者は抗生物質を出してくれない、
ヤブ医者だと言われてしまう。

それなら、患者の求めに迎合して、患者が納得する、患者が喜ぶ処方をしたほうが、ヤブと言われないですむし、患者も減らないですむ。

結果、旧態依然とした常識がまかりとおったまま。

もしかすると、
腰痛のストレス説も、風邪の抗生物質と同じ道をたどるのではないか。
そんな気がしてきた。

このままでは、痛みのソフト論(脳の問題)は歴史の闇に葬り去られ、
気がついたら、ハード論(肉体の問題)に逆戻りなんてことも?

それだけは絶対に阻止しなければ。

せっかく、医学界が痛みの真実-ソフト論-を認めたのに、
現場の思惑-市場原理-に負けて、旧い世界に逆行することは
なんとしてでも回避したい。

そんな思いから、
腰痛の原因「ストレス説」は患者さんの救いになるか?(リンク切れ)
をブログで発表しました。

ところが、
それに対する周囲のリアクション…、
そのほとんどが私の想像とは違っていたんです。

なぜか?
それについて熟慮した結果、
ついに、すべての謎が解けたのです。
レントゲン検査を求める患者も、マッサージを求める患者も、矯正術を求める患者も、これから先、顕著に減るということはありません。

痛みのソフト面が、認知されるようになったとしても、
たとえガイドラインに記されていようとも、
世の中が市場原理で動くかぎり…。

何よりも、世人の90%は分かりやすい安心感を求めている。
すなわち “ハード(肉体)” のストーリー を望んでいる。

しかし…、
あくまでも真実は “ソフト” の問題。

痛みの真実は、“脳” にある。

外傷の痛みとはその存在理由が異なる慢性痛、
生命維持への警告サインとは言えない慢性痛、
これらはなぜ消えないのか?

その答えは私論-痛み記憶の再生-に著したとおり。

ただ、
そこにはもうひとつ、別の見方があります。

痛みは脳が自らの代謝バランスを維持するための
究極の自己防衛的な措置でもあるんです。

つまり脳にとっての自衛措置という見方。

認知症のリスクを負っている人にとって
マスキング(本来痛みが出てしかるべきときに痛みを出せない)
こそが注意すべき兆候…。


さらに、別の“真実”もあります。
痛みには“核心部分-心の問題-”から目を背けさせる、注意をそらせるための、
避難措置としての役割もあるんです。

病院、接骨院、整体院、サロン等は
その避難場所、シェルターとして機能している側面が。

現代人は多かれ少なかれ、自らの深いところに、
何らかの傷を背負って生きています。

まったく無傷という人はいません。

世人の多くは現実社会から、自らの心の問題から、
逃避する時間と空間を無意識に求めています。

現実だけでは、苦しすぎて生きていけないのです。

そのため、日常の中にちょっとした非日常-現実から逃れる時間-を作ることで、心のバランスを保っているのです。

それが、外食であり、酒であり、旅行であり、趣味であり、ネットであり、
そして“癒しの時間”でもあるのです。

痛みのケアをするために足を運ぶ病院や整体院…、
そこにも、そうした“時間”の意味が
包含されているケースがあります。

そして、なるべくなら自身が努力することなく
外的アプローチのみで完結してほしいという人が多数派。

面倒な内的アプローチを選ぼうとする人は少数派。


風邪の真実を知って、自らの免疫力を高める努力をすることより、
分かりやすい安心感-抗生物質-にすがりついて、
思い込み効果(プラセボ効果)の発動で、
表面的に風邪の症状を消したほうが、はるかに楽なんです。


そして、そういう人々が多い社会こそが、
製薬会社の収益を守り、何万人という雇用を維持し、
経済を発展させ、安定させます。

もし国民すべてが、食の真実に気づいて、
仙人のような食生活を送り始めたら、
日本の経済は終わってしまいます。


私は、いったい何のため、これまであくなき勉強を続けてきたのか。
患者さんを助けるため?

自分でも分からなくなってきました。

たしかに、人間とは何か?
ということが知りたかったのは事実です。

患者さんを救うことよりも、ただ真実が知りたかった?

ぼくには“愛”がないのか?

知的欲求を満たすために、エゴだけで生きてきたのではないか?

多くの患者に手を差し伸べ、
現代社会の市場原理に逆らわずに、
世人のニーズにこたえようとするなら、
そして、家族をきちんと養わんとするならば、
真実を押し付けるのではなく、
分かりやすい安心感を届けるべきではないのか?

“抗生物質” を出すべきではないのか?

“評判” “口コミ” が気になっている人々に
“美味しい”情報を提供して、安心させてあげるべきではないのか?

それなのに、
ぼくは痛みの真実(心の問題)、
それも9割の患者さんにとって、受け入れ難いストーリーを、
金科玉条のごとく、ふりかざし、
「助けて」と、避難場所を求めてきた人に対して、
ただ現実世界に戻れと追い返してきただけなのか。

自分の心から逃げるな、真実から目をそらすなと
ただ、逃げ道をふさいできただけなのか…。


けれども、
その一方で、「そんなぼくだからこそ、救うことができた」という、
主観の記憶があるのも事実。

生きる気力を奪いかねないほどの痛みやしびれに襲われ、
「このまま人生が終わってしまうのではないか」
という絶望の淵にいた人々をぼくは救ってきた。

そういう人たちを、ひとり、ひとり、思い出して、記憶を紐解いてみる。

すると、
彼や彼女たちは、ぼくがこれまで救ってきた人たちは、
常識外の説明に対して、耳を傾けることのできる、心の柔らかい人たちだった。

しかし、そういう世人は“1割”。

ぼくは世の中の10%の人たちにしか、手を差し伸べることができない。

医療者といえども、サービス業である以上、
市場原理に従って、家族をきちんと養って、
経済の不安がない人生を送るため、
90%の人たちに訴求したほうが、ストライクに決まってる。

それなのに…。

でも、待てよ。
10%ということは、日本国民で言えば、およそ1000万人ということだ。
地元さいたま市は100万人都市だから、そのうちの10%は10万人か。

そう考えれば、
ぼくはその人たちのニーズにこたえる存在であればいい、
そういうことかもしれない。


とは言っても、
真実だけがすべてじゃないし、
真実だけが正義じゃないし、
真実だけが経済を作るわけでもない。

なんだかなぁ…、
自分は、本当は何者なのか分からなくなってきた。

やはり自分の立ち位置をわきまえないと
こういうことになるんだろうなあ。

ぼくがどこぞの有名教授だとか、せめて医師ならまだしも。


かつて同じ方向性でブレークした「腰痛は怒りである」の著者は、
ジョン・サーノという高名な学者を冠して、
文脈を作っていたから、成功することができた。

もし彼自身が作ったオリジナルとしてTMS理論を振りかざしたら
誰からも相手にされなかった可能性が高い。

世の中というのはそういうものだ。

常に肩書きで判断している…。

だから、
「痛み記憶の再生」という理論をふりかざしている
“ぼく” という存在は、究極ヤバい。

たとえ、それが真実であろうとも、
自分の歩みそのものが、常軌を逸している。


ぼくがヤバいのは分かった。それはひとまず脇に置いて…。


痛みの本質を考えるとき、脳の次元を無視するストーリーに
何らの合理性も正当性もあろうはずがない、絶対に。

と言われたところで、
やはり信じられないという人もいるでしょう。

でも、あなたは違います。

“完全否定” なら、ここに辿り着いていない…。
途中で読むのを止めています。

今、この文章を目にしているということは、
すなわち、あなたは、「ほぼ共感」という稀少のケースを除き、
おそらく
「全部を受け入れるのはむつかしいけど、かと言って全部が違うとも言い切れない気がする」
という感想を抱いているのではないでしょうか。

半信半疑という人も
数ヵ月後あるいは数年後、再び、この記事を読むことがあったら、
今とは違う思いを抱いている可能性があります。

「昔、こどもの頃に読んだ小説。
おとなになって読んでみたら、まったく違う内容に感じた」

「学生時代に観た絵画。
社会人になって観たら、まったく違う絵に見えた」

そんな経験をお持ちの方もいらっしゃると思います。

変わったのは小説?絵画?
違いますよね。変わったのは “自分” です。

人は変わる生き物です。

変われるからこそ、人生は面白いんです。

そして、
自分が変わると、世界も変わります。

私は、天災から逃げる時、群衆の流れと距離を置くことに躊躇しません。

自らの直感や思考を封印して、群衆につき従う行為のほうが、
私にとっては “不安” だからです。

ですから最後は、自らの意思に従って動きます。

多くの人が逃げる方向とは違う方向へ逃げることもあるでしょう。

その結果、群衆が正解のこともあるでしょうし、そうでないときもあると思います。

でも、
どんな結末を迎えようと、私は誰かのせいにすることはありません。

“自分が選んだ結果” だからです。

何がおきても、自分という人生の一部であり、
ありとあらゆる、いっさいがっさいを請け負うという
明確な意思、覚悟を持って、私は生きています。

自分の人生におこることは、すべて自分に原因があるというのが、私の考えです。

心理学では内的統制と言います。


痛み記憶の再生」理論を掲げることで、
患者さんにドン引きされようと、

それによって、経済的に追い詰められようとも、
自分の歩みを変えることは…、考えられない。


たとえ “いばらの道” であっても、
誰かがやらねばならない…。

「なぜ自分なのか?
他にもっとふさわしい学者なり、研究者なり、いくらでもいるだろうに…」
という思いは、たしかにあるけれども、
「それがお前の使命だ」と、宇宙から言われている以上、
黙って受け入れるしかない。

自分自身はどんな結末も受容する覚悟ができている…。

とは言っても、
家族にとっては、私の覚悟などどうでもいい話。

ふつうの生活が送りたいだけ。

年老いた両親も、妻も…。

ああ、そうか。
だから私は子供を授からなかったんだ。

子供がいたら、こんな人生は不可能…。

とは言え、両親や妻に対しては、心の中で毎日唱えています。

「ありがとう。ごめんなさい。赦して下さい。愛しています」

と。