先日、納戸の片づけをしているとき、チョー古いVHSビデオレコーダーを発見。

「これって、まだ動くのかな?動いたらメルカリにでも出すか」と、電源を入れてみたら既にカセットが入っていて、なんと普通に再生できちゃった。

 「すげー!動くじゃん!」と喜んでいたら、画面には懐かしい映像が…、それが上の動画でした。

 軽井沢時代、実は2回もテレビ出演していたことを思い出しました。1回目はテレビ信州の取材ロケ。県知事選挙へのコメントを求められ、それが使われ…。ちょうど田中康夫さんが立候補したときだったかな。で、2回目が上の動画。

 私のテレビ出演回数はこれまで計4回。一番最初は5歳のとき、銀座の歩行者天国を家族で歩くシーンがお茶の間に。昭和45年8月2日、日本で初めて歩行者天国が実施されたのを受けて、それを伝えるニュース番組でした。

 あれからちょうど50年の今年(2020年)、コロナ禍で一時中止されましたが、今も歩行者天国は束の間の解放感を与えてくれてますよね。

 4回目は「林先生が驚く初耳学」の番組内で私の施術シーンが紹介されました。→こちらのページでご覧いただけます。

 
 軽井沢では「小説を書いては文学賞落選」を繰り返す貧しきバイト生活。そんななか、私ら夫婦が勤めていた手作りジャムの店「軽井沢農園」。

 店の軒先に試食コーナーを設置していた関係で、毎日のように味見をしてました(風味の落ちているジャムはすぐに廃棄する必要があるので)。いやあ懐かしい、ほんとに美味しかったんですよ~。

 軽井沢町内に4店舗あって、そのうちの2店舗を私と家内がそれぞれ店長みたいな感じ(店長という肩書ではなかったです)で、いちおう店を取り仕切ってました。

 オーナーの方がすごくユニークな、ざっくばらんな感じの人で、商品のレイアウトとか、試食の方法とか、BGMとか、全部「自由にやっていいよ」みたいな感じがあって、家内はそれまでどおりの流れを踏襲して地味にやってましたが、私は「じゃあ、いろいろ自分で工夫してやっちゃおー!」ってなノリで、けっこうやりたい放題でした(笑)。

 BGMは自分が大好きなエンヤばっかり、ジャムのレイアウトも独自の並べ方に変えて、試食もオリジナリティを発揮して…。で、自分で言うのもなんだけど、けっこう売上UPに貢献していたと思います。

 もし小説家になれなかったら、このまま「軽井沢でジャム屋さん」ていう人生もアリかなって思ってた時期も…。

 もしホントにそうなっていたら自分の人生はどうなってかな?

 こだわりが強すぎて原価の高い商品開発に傾注して経営失敗する典型例になってかな?それとも、そのこだわりがいい方に働いて軽井沢の名店の仲間入りを果たしてかな?それともカフェ経営に興味があったからそっちに乗り出して大失敗ってな結末だったかな?

 ま、「たられば」は無為…。それはさておき、なんだか無性にあのときのブルーベリージャムが食べたくなってきた。うー、マジで食べたい!

 あらら、ほんとにおなか空いてきちゃった。 …夕飯にします。

 ではでは。