先日の夕食中、テレビの中でカウンセラーを取材しているシーンが。すると母がポツリと。
「そういえばお前も子供の頃、将来はカウンセラーになりたいって、作文に書いてたっけね…」
「えっ、そうなの?全然覚えてないけど」
「よく書けてますって、先生に褒められてたじゃない」
「ほんとにぃ?マジ覚えてないんだけど…」
他の誰かと勘違いしてんじゃないの?最近ようやくパートナーロスから立ち直ったと思ってたのに、さすがの母上様もとうとうMCIか?なんてあらぬ疑いを…。
とは言え、気になったので証拠さがしをせねば。ということで押入れの奥にあった古い段ボールを引っ張り出して、手あたり次第…。
結局、現物(作文)は見つからず。その代わり意外なものが!それが下の作文!
以前UPした記事「病院で生まれ育った?」で、「自分は救急病院の中で生まれ育ったようなもの」と、その特殊な生育環境についてお話しました。
その中で「大学受験の志望先を医学部から工学部に切り替えたとき、建築学科を選んだ理由は自分でも定かでない」と記しましたが、なんと小学生のときに既に建築家になりたいという意思を持っていたぁあ!
この作文のことも全然覚えてなかったけど(苦笑)、いやあ本当にびっくりしました。まさか小学生のころから「建築家」なんて言葉を…。
にしても、小学生の自分がどうしてそんな思いを抱いていたのか、今もってまったくの謎。自分が建築オタクであることを自覚したのは高校生になってから…。う~んミステリー。
その代わり…、段ボールの中をごそごそしているとき、カウンセラーになりたいと思っていた“自分”を思い出したんです。結局最後まで現物は見つからなかったけど、「そうだった、確かにそう思っていた時期があった」と。
そして高校から大学にかけてフロイトやユングをはじめ心理学の本ばかり読んでいた時期があって、自分でも何でそんなものばっか読んでいたのか意味不明だったんですが、その謎も解けました!
人間の記憶の不可思議さをあらためて思い知らされた…。
実は小学生のころ、クラス内の派閥というか、はっきりとグループ分けされちゃってるときがあって、ぼく自身はそのいずれにも属してなくて…。
その状態がすごく居心地が悪くて、完全に「仲間外れにされている」という疎外感…。グループに入っていないのは自分を含めて、たぶん2~3人くらいしかいなかった。
そのとき子供ながらに人間の集団性、コミュニケーションの在り方とかそういったものにすごく興味が沸いて、以来精神とか心とか、そういう概念について考えることが多くなっていったんですよね。
そして中学生になって、いじめに遭ったとき「小学生のとき仲間外れにされたのも、今いじめられているのも、原因は周りの友達?それとも俺自身?どっちなんだろう?」っていう素朴な疑問が。
で、ふと思ったんです。
「テレビドラマを観ているときは、登場人物たちの関係性や心の動きがよく分かるのに、現実世界ではイマイチだよなあ。そうだ!ならば自分自身を含めた現実世界をテレビの画面越しに観るような俯瞰の視点を持てば、どっちに原因があるのか分かるかも!」
で、その日から自分の頭の上にテレビカメラを数台浮かべて、自分を含めた周囲数メートルの空間を常に上から眺めるような精神状態を自分の中に創り出して、全体を俯瞰する訓練を自らに課していったんです。
そしたら、次第に「状況が見えて」きたんです。そんでもって呆気ないほどに明確な答えが!
「なあんだ、そうだったのか!なるほど!原因は周りじゃないわ。間違いなく、オレ自身だ!」
それからは自分の言動や行動パターンのヤバいところをひとつひとつ修正していきました。その効果はすぐに現れて、いじめがなくなり、周囲との関係性も滑らかに…。
これがのちに「客観視力って大事だよ」さらに「内観力も大事だよね」というストレスマネジメントにおける自分なりのベース理念ができたきっかけでした。
今もアスリートのメンタルトレーニングから発達個性の方へのプチアドバイスに至るまで、このフレーズを使うことは多いです。今にして思えば、かつての自分は「ASDとADHD混合型の発達個性ど真ん中」だった(今もその名残は随所に残ってますが)と分析してます。
ただし、客観視力という能力は非常に個人差が激しいです。どんなに努力しても身につかない人がいる一方で、生まれながらに持っている人もいる…。
なので、こればっかりを強調して勧めてみたところで、苦手な人にとっては辛いだけ。全てのことに共通して言えることだけど、本当に人には得手不得手があって、「できること」と「できないこと」がある。
個人差という問題はごく当たり前のことなんだけど、戦後日本の教育制度はそういう能力の凸凹すなわち個性を尊重するよりも、全員が右を向いたら右、左を向いたら左という同調圧力的な手法を強いてきた。
こうした「国民総マルチ人間化」は意図的ではなかったにせよ、その弊害として「個人差に対する不寛容」という国民性が生まれてしまったような気がする。
それが現在のコロナ禍にあって、日本人の同調圧力の強さの淵源であろうと、ぼくは思ってます。あくまでも個人的な見解です。
「なお意見には個人差があります」
このフレーズはホントに深イイ。
実は「個人差無視」という次元、これは医学、医療においてもまったく同じことが言えるんです。
東大医学部卒の精神科医和田秀樹氏は自著の中で『基本的に西洋医学は個体差を考慮しない学問であり、一方で東洋医学は個体差を重視する学問だ』と言っていますが、私もまったく同意見です。これについてはメッチャ長くなるのでまた別の機会に(➡こちらのページで解説しています)。
かつて私は整形外科に入職して間もなく、けがや慢性痛の回復には大きな個人差があることを知り、その理由が肉体次元だけではとうてい説明がつかないことを覚知しました。
そのため、通常あり得ないことですが、けがや痛みを抱えている患者さんたちにカウンセリングをさせていただくようになりました。
ですが患者さんにしてみれば、心理的なカウンセリングを受ける理由が分からない、肉体(フィジカル)の問題で整形外科に来たのに、どうしてメンタル系の話を聴かれるのか意味不明。患者さんにとっては本当にいい迷惑。
だけど、ぼくとしてはそれをしなかったら真実がまったく見えてこない…、何も見えない暗闇の中を進むのと同じ感覚だったんです。
心の問題を無視する医療というものは、アスリートに置き換えると、心技体の“心”を封印して、“技体”だけを追求するようなもので、ぼくにとってはめっちゃ違和感があったんです。
学生時代から心理学の勉強を続けていたというのもあるんでしょうけれど、ぼくは整形の外来で言わば心療内科の視点を持って患者さんに接し続けました。独立開業してからもずっと変わらず…。
そうして気がつけば30年が経ってました。良くも悪くもそこだけはぶれなかったですね。まったく。ほんの一ミリもぶれませんでした(このフレーズ最近流行ってるよね…)
で、最終的に辿り着いたのは「聴く力」なんです。