「船の上のピアニスト」という映画の主人公は生涯船から降りることはなかった…。それはリアルな船というモチーフの上での話。
一方で、私は目に見えないメタファー“病院”から出ることができない運命にあるのかも…。
昭和39年東京オリンピックが開催された翌年、私が生まれた直後、父は救急外科病院の手術スタッフとして採用され、以後10年以上にわたって救急医療の最前線で奮闘しました。
父の資格は接骨師(柔整師)でしたが、当時はそのような就業形態が稀にあったそうです。今ではとても考えられないことですが。
都内の目白通りに面したマンション下層(1~3階)が外科病院になっており、私の家族はその4階に住んでました。
幹線道路に面した救急病院にはひっきりなしに救急車の発着が…。夜中にサイレンの音で目を覚ますと、直後にリビングの電話が鳴り、父が階下に降りていくという日々。
私にとって物心ついたころから、それが“普通”の日常でした。そして私の遊び場所は2~3階の病棟、遊び相手は看護師さんと入院患者さん。院内ではマスコットボーイ?のような存在だったそう。
こっそり忍び込んだ手術室やレントゲン室の冷たい陰影、病棟の廊下を走り回った記憶が今もおぼろげによみがえります。
父が退職するまでの10数年間をそのような環境で過ごした私は、文字通り「病院で生まれ育った」わけです。
しかし24時間体制で手術に明け暮れる父の姿を前に、「こんな過酷な仕事はしたくない」と感じていました。病院で生まれ育ったがために、心のどこかで病院職にだけは就きたくないと感じていた…、そんな気がする。
そんな思いとは裏腹に、親の言うがままに医歯薬進学コースがある高校に進み、気がつくと医学部受験の真っただ中に。クラス内で常に成績上位だった私は家族も含め周囲のほとんどが医学部に進むものだと思ってました。
ところが高校3年の夏休み、両親のすれ違いが表面化し、母から「お父さんと離婚することにした」と涙ながらに告白され、「じゃあ、俺が働くから心配ないよ」と応答し、高校卒業と同時に母と二人で暮らしていこうと決心しました。
その1週間後くらいだったと思います。母の様子を見ていて違和感を覚えた私は「で、いつ離婚するの?」と聞くと、「へ?何の話?」という返事…。
感受性豊かな思春期…、私の中で何かが切れたというか、すべてがどうでもいい感じになったのを覚えています(あとで分かったことだけど、母の告白は酩酊時のものだった…)。
その数日後、床屋でパンチパーマにし、それまで付き合いの薄かったやんちゃ系のグループに入りました。
今でもこのときのパンチパーマが原因で、髪の毛が薄くなる時期が早まったのではないかと、若ハゲの、じゃなく若気の至りを後悔しています(笑)。
以来、分かりやすい形の“ぐれる”感ではなかったですが、自室で勉強机に向かうことはほとんどなくなりました。
そして両親に反発するかのように理工系への進学に鞍替えし、結果、当時のクラスで医歯薬系以外に進んだのは私1人という顛末に。
学科については建築を選んだのですが、相応の動機はあったものの、どこまで本気だったのかは疑わしい…、経緯が経緯なだけに。
結局、大学時代は体育会のテニス部に入り、ジュニア時代の不完全燃焼の思いが仇となって、部活に熱中する羽目に。
そしてあろうことかプロ転向という妄想に憑りつかれ…。ところが大学3年の夏に重度のテニス肘を発症して以来、全力でサービスを打つことができない体に…。
留年を繰り返していた私はテニスの実力もさることながら、プロ転向などあり得ないことを覚知しますが、留年の事実を父親に知られてしまったとき、もはやこれまで…、「父の怒りを鎮める最善の策は、父の跡を継ぐという方便しかない」という結論に。
都内の病院を退いて後、埼玉県で接骨院を開業している父に対し、「ごめんなさい、家業を継ぐので許してください」と平謝り。
そうしてかつての父が通った専門学校に入り直し、資格を得た自分に待っていたのは父からの予期せぬ言葉。
「まずは病院で経験を積みなさい、しばらく整形外科に勤めてしっかりと技術を身につけてきなさい」
幼少時に病院という職場に複雑な思いを抱えていた私は、見えない運命に引き寄せられるかのように、再びその場所へと。
その後も、幾度となく「病院からの脱走」を企ててきましたが(軽井沢に逃亡して作家になる夢を追いかけたり、カフェ経営の夢に浸ったり…)、結局は連れ戻されてしまう連続。
映画「船の上のピアニスト」は、実はまだ観たことがないんですが、主人公は降りようと思えば降りられるチャンスはあったのに最後まで降りなかったそうです。
その理由は映画を観ないと分かりません。ネットのネタバレ記事は見ないようにしているので。
もし観たら、僕は何を感じるんだろう?実際に観ることになったら、その感想をここでまたお話ししま〜す。
ではでは。